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【教師だった私へ⑥】教師8〜11年目。感じた歪みと、叶わなかった教師最後の目標。

目次

はじめに。12年間勤めた教師を辞め、民間企業に転職しました。

Kurin(くりん)です。

2023年7月に転職エージェントに登録し、同年12月に内定を頂きました。
そして2024年4月1日より、民間企業にて会社員として勤務し始めています。

新しい世界に飛び込み、新たな経験を積み重ねている日々ですが、そんな毎日を繰り返すうちに教師として働いた記憶が薄れていくのは間違いありません。

今の私を築き、転職活動を成功に導いてくれたのは間違いなく12年間の教師経験です。
その日々を忘れたくなくて、”教師だった私へ”というカテゴリーで記事を書いています。

当ブログは

教師から未経験業界・未経験職種への転職を目指す方
30代中盤からの転職を目指す方

のための転職情報に特化したブログです。
”教師から民間企業への転職”を実現するための役立つ情報を掲載していますので、よければこちらも御覧ください。

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さて、この記事はそういった方にとって有益な情報とはならないかも知れませんが、新たな道に進み始めた私の素直な気持ちをどこかに残しておきたいと思い、キーボードを叩いています。
自己満足の記事ですが、お読みくださる方は息抜き用のエッセイ的なものだと思って読んでいただけると嬉しいです。

教師生活8〜11年目。教諭として5〜8年目。

教諭として経験した4年間は、楽しいことも、辛いことも経験し非常に濃い期間となった。
心から理解し合える同僚とも出会え、教師としての思い出の大部分がこの時期だったと言える。

そんな過ごしやすい環境ではあったが、教師としてのキャリアを考えた時に

授業力と進路指導力

が自分には足りないと自覚していた。
これまで勤務した学校は決して偏差値が高いとは言えない高校ばかり。

学校教育の本分である授業と、生徒の将来に関わる指導。
これらを追究する機会も思考も私には欠けていた。

それらを学びたいという思いから進学校への異動を希望し、転任することとなった。
そして赴任することになったのは県内でもトップレベルの進学校。

この4年間でもまた新たな気づきを得ることになる。

県内トップクラスの進学校に赴任した私は、国語科の教科指導を集中して学べるかと思ったが、人間関係に悩まされた。

特に同じ教科の先輩教師のことを異動するまで気にしながら過ごした。
詳細はここでは語らないが、赴任早々、数ヶ月でその先生(A先生)に嫌われた。

その原因の根本は私にあったとは思う。
当時疲れのピークだったのか、A先生と私に関わる事務書類の作成で立て続けに同じミスをした。
その頃、色々と精彩を欠いていたのだろう、最初は冷やかしながら許してくれたが次第に表情が敵意に満ちるようになった。

そこからはまともに話もしてくれず、目も合わせてくれない。
業務にも支障が出るレベルだった。

最初は怒らせてしまったなぁ、と自分の至らなさに反省していたが、時間が経つにつれて仕事に影響が出る態度を取るのはどうなのかと反感を持つようになり完全に仲違い。

A先生は影響力もあり、私の良くない評価を同僚に伝えていたのだろうし、A先生の周囲に近づかない私は自動的に孤立していった。
とはいえこの学校での勤務終盤になると、A先生に違和感を持つ同僚の声も聞こえるようになったため、勝手に孤立していたと思っていただけかもしれない。
数年はこの状態が続き、人間関係の良さで耐えられた前任校からの落差が激しいかなり苦しい時期だった。

その状況にすこし変化が生まれたのはA先生と同じ学年の所属になったことで、協力しなければやっていけないと思ったのか、露骨な態度を同僚に見せられないと思ったのか態度が軟化し、何事もなく私に話しかけてくるようになった。
関係の問題は一方的に解消されたが不審と違和感は異動でA先生から離れるまで拭えなかった。

今振り返って思うと、私は何を怖がっていたのだろうと思う。

自分が来る前からいた、状況がよくわかっている教師。
なんでも分かっているような、口が達者な教師。
自分をうまく見せることのできる教師。
周囲をうまく丸め込むことのできる教師。

それだけだったんじゃないだろうか。

ユニークな物言いで人気はあったように思われたが、その実、本当に信頼していた生徒はいたのだろうか。授業もそんなに上手かっただろうか。果たして教師としての指導力はあったのか。

国語科の授業に関する経験が少ないことを、自分の能力が誰と比べても劣っていると思い込んでいただけなのかもしれない。
確かに未熟ではあったが、自分なりに考えて考えて、納得のいく授業ができるようになったのも確かだ。

もう辞めた身ではあるが、A先生には負けない教師であったと思う。

授業に関しても進化が見られた。

進学のための教科指導というものがどうあるべきか、最初は試行錯誤が続いた。
前任校のような生徒の協働をメインとする展開を中心に据え展開したが、それは長くこの学校で教えている先生にはハマらなかったらしい。
直接は何も言われなかったが、影で色々言われていたのだろうなあと思う。

しかし学び合いを展開の骨子に据えたが、その内容は受験に対応できるものだと考えていた。
ただ覚えるだけでなくどうしてそうなるのか、その理屈を他者に伝えられるほどの言語化を求めただけだ。
そのアプローチを早期に身につけることで、受験期に入ったときに自分自身で考え、答えを導いていく能力を身につけられると考えた。

同僚はそんなことではなく、とにかく覚えさせることを優先させたがった。
それもまた間違いではないと思う。まず自分の中に定着していないと何も始まらないからだ。
その点、知識を定着させるための徹底した取り組みはベテランの同僚は凄かった。

自信のなかった教科指導だが、次第に自分の方法は間違いではないと思えるようになった。
読解の方法論を確立し、それに基づいて問題を問いた際の正答率が高くなったからだ。
実際自分で解いてみた共通テストの点数も年々上がっていったし、二次試験の過去問添削も筋の通った解説もできた。

世間では国語は

”作者の考えを読み取ろう”
”登場人物の気持ちを考えよう”

という感性や道徳的側面に頼った読解をするものと考えられがちであると思う。
それは思い違いで、私は数学や理科などと同様に公式が存在する教科だと考える。

その公式が日本語で表現されているというだけだし、

この表現や構成だと、どう捉えるのが一般的か

というのを見出す教科だと思う。
問題になるということは答えがあるし、答えがあるということは誰がどう見てもそうなるという根拠があるのだから、

”ここにこう書いてあるんだから、そう捉えざるを得ない”

という読み取りをしていかなければならない。
そしてその練習をするのが、国語科の授業であると考える。

ただそれが、内容の要約になってしまっている教師も少なくない。
特に現代文分野ではそれが多く見られるし、鑑賞のような展開が中心になってしまうこともある。
それを完全に否定するつもりはないが、中心として据えるものではないと思う。

県内トップの進学校と言いながら、特に現代文の教科指導は何かが不足していたのではないかと思う。

そんな思いを研究授業に込め、同僚に見てもらったが反応は良くなかった。

塾みたいな授業だった

それしか言われなかったが、その評価も納得できなかった。
根拠を持った読解のためのアプローチに注目してもらいたかったが、それもされなかった。

もういいか。
ここでやっていても仕方がない。

そう思った。
県内トップの進学校ではなく、中堅校を伸ばして抜いてやろうと思うようになった。
教師を辞めたので、それが叶わなかったのが教師としての心残りの1つだ。

進路指導にも戸惑いがあった。

地方の進学校にありがちな国公立大学最優先の考え方。
早慶よりも地方国公立を目指させる。

進路指導部の目標は国公立大学の合格者数を増やすこと。
東大合格者を増やすこと。

私が赴任した前年から、それを実現するためのカリキュラム編成に変えたらしいが、それこそ塾と変わらない構成だった。

カリキュラムは多くを話すと特定されかねないので、割愛するが純粋に生徒に寄り添い、より良い進路を実現させていくだけではない、歪みを感じた。

県内でも有数の進学校という自負と、周囲からの評価もあって、教育委員会や世間からの求められるものもあったのかもしれないが、息苦しさを感じた。

先述した、中堅校に行きたいと思ったのもこの進路指導を経験した影響が大きいと思う。
そんなつまらない進路指導を超えてやりたいと思うようになった。

あなた達がやっているのは、良い生徒が自分で頑張っただけで教師の力ではない
他の学校で実績を伸ばしてそれを突きつけてやろうと思った。

ITスクール【ネットビジョンアカデミー】

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県内屈指の進学校の4年間は人間関係に神経をすり減らした。
前任校では人に恵まれたが、この落差が教師を辞める転換期だったと思う。

もうあんな人達と一緒に働くことができないのだろう、と考えると

もういいや

となってしまった。
こんなに人のことを嫌に思いながら働くのならば、もっとドライな環境のほうがいいと考えるようになった。
この頃から転職を考え始め、最初の転職エージェント登録も赴任2年目だった。

でもその時に踏ん切りがつかなかったのは、まだ諦めきれない部分があったからだと思う。

母校で教鞭を取ること
母校の部活動で全国大会に出ること

私の最終的な目的地はここだった。

そんな思いを持ちながら転勤希望を出したが、願いは叶わなかった。
私が次に赴任する、最後の勤務校はまたしても困難校だった。

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