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【教師だった私へ⑤】教師4〜7年目。残したものも、貰ったものも多いらしい。

目次

はじめに。12年間勤めた教師を辞め、民間企業に転職しました。

Kurin(くりん)です。

2023年7月に転職エージェントに登録し、同年12月に内定を頂きました。
そして2024年4月1日より、民間企業にて会社員として勤務し始めています。

新しい世界に飛び込み、新たな経験を積み重ねている日々ですが、そんな毎日を繰り返すうちに教師として働いた記憶が薄れていくのは間違いありません。

今の私を築き、転職活動を成功に導いてくれたのは間違いなく12年間の教師経験です。
その日々を忘れたくなくて、”教師だった私へ”というカテゴリーで記事を書いています。

当ブログは

教師から未経験業界・未経験職種への転職を目指す方
30代中盤からの転職を目指す方

のための転職情報に特化したブログです。
”教師から民間企業への転職”を実現するための役立つ情報を掲載していますので、よければこちらも御覧ください。

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さて、この記事はそういった方にとって有益な情報とはならないかも知れませんが、新たな道に進み始めた私の素直な気持ちをどこかに残しておきたいと思い、キーボードを叩いています。
自己満足の記事ですが、お読みくださる方は息抜き用のエッセイ的なものだと思って読んでいただけると嬉しいです。

教師生活4〜7年目。教諭として1〜4年目。

前年度、定時制高校にて講師ながらクラス担任を経験した。
そのおかげか挑戦3回目にして教員採用試験に合格し、教諭として勤務することができるようになった。

そして再び異動を経験、今度の赴任先は実家から30分ほどの学校。
3年間過ごした地元から遠く離れた土地での教師生活は終わりを迎える。

ついに迎える教諭としての初年度。
大卒1年目とはまた違った新鮮さ、違ったやる気に溢れ着任した。
この3年間様々な経験を積み、生徒からも慕われていたと思う。
だからこれからやっていく自信はあった。

赴任した高校には合計で4年勤務した。
この学校はどちらかといえば困難校で男子よりも女子が多い。
部活動も体育クラブより文化クラブのほうが活発な印象がある。

この4年間ではそれぞれ

1年目:1学年副担任、生活指導部、専門ではないスポーツの顧問
2年目:2学年担任、生活指導部、専門でないスポーツの顧問
3年目:3学年担任、生活指導部、専門スポーツの顧問
4年目:3学年担任、生活指導部、専門スポーツの顧問、文化部の副顧問
を担当した。

同僚との関係、悩みも救いも。

国語科の同僚はかなり個性が強く、他教科の同僚からは”大変だね”との声掛けをよくされた。
私を入れて合計で6人、そのうち20代が3人、50代が3人という年の離れた構成だった。
この50代3人が曲者で、

A先生:こだわりが強く、パソコン業務が全くできない人
B先生:物の管理ができず、教師用の机を3つも占領した上で全てが山積みな人
C先生:何でも許可するため生徒から舐められ、その後始末もしない人

恐らく、それぞれがそのペースで30年近く教員生活を送ってきたのだから、簡単には融通を利かすことはできない。
その人達のペースに合わせながら仕事をすることにかなり悩まされた。

教科会議はいつも定められた時間には始まらず、散らかった部屋を片付けるところから。
成績のデータ入力なども間に合わない。
かといって始まると生徒たちの愚痴話。

すべきことをしない(できない・間に合わない)同僚との仕事は苦痛だった。
途中で何人かは入れ替わったが、入れ違いに転入してきた年配の先生(D先生)にも良くして頂いた。

D先生は県内でも屈指の困難校から赴任し、生活指導部員として同じ部屋で仕事をしていた。
経験も豊富で視点もフラット、授業研究にも熱心で公私ともに多くのアドバイスを頂いた。
特に面倒見の部分でお世話になり、忘れられないエピソードがある。

私は4年目にA先生と同じ科目を担当していた。

A先生は先述の通り、こだわりが強く授業の進度もかなりゆっくりで、私の方が結構先に進んでいた。
考査期間になり、考査作成担当はA先生だったのだが一向に問題案が出てこない。
聞くと考査範囲まで到達するのがギリギリか、一部間に合わなくなるとのことだった。

結論として、問題作成はA先生に任せ、私は考査当日まで問題を見ることができなかった。その問題には、私の担当するクラスで参考資料程度に扱ったプリントから結構な点数分の出題が合ったことだった。

確かに共通で使用した範囲のプリントではあったが、その内容は”単元文章に出てきた◯◯ってこんな文章ですよ”ぐらいのもので全く単元の中心ではなかった。

しかも、穴埋め完答でしっかり読み込んでおかないと正解にはたどり着けない。

結果として私が担当した生徒たちはその部分で正解することができなかった。
そんな所から出題したことや、そもそも問題作成が遅れていなければ不公平が起きそうな問題の変更もできたことから、テスト終了後に職員室で強めの語調で抗議した。

その様子をたまたま見ていた生徒たちが、A先生が私に怒られていたと冷やかしたことも不愉快だったのだろう、A先生は恥をかかされたと管理職に訴えた。

事の顛末を管理職に尋ねられた私は、ありのままに伝えたが最終的に私がA先生に管理職の前で謝らされることになった。


謝罪の内容は無礼な言葉遣いで叱責したこと。

相手からの謝罪はなし。納得もいかず、不本意でしかなかった。
この事態に抗議してくれたのがD先生で、全力で私を守ってくれた。
多くの同僚たちは”大変だったね”ぐらいの同情をかけてくれただけだったが、行動に示してくれた数少ない先生だった。
間違っていることは間違っているとはっきり言うD先生。
それは生徒に対しても同じだった。かなり勝手な親を持ち、進路に関しても生活に関しても振り回されている生徒に対し
そんな親、捨ててしまったらいい
と言い放てる程の強さと、背景を持った方だった。
そんなD先生が生徒と向き合う姿や、仕事っぷりを一番近い所で見ることができたのは教師経験の中で最も勉強になった期間だと言える。
先程のエピソードの時にD先生と先生同様に、生活指導部の先生方も抗議をしてくれた。
課題を持った生徒が多い中、団結して指導にあたっていたため団結力も強く、公私ともに仲良くさせて頂き、今でも連絡を取り合う先生も多い。
私が教師を辞めることを決意したのは、この頃のような働き方はもう二度とできないと思ったのが理由の1つだ。
この期間勤務した高校では得られない経験を求め、教師としてのステップアップをするために転勤を希望したが、こんなに楽しい職場はなかった。
些細なことでも笑い合ったり、互いにしんどい時には支え合い、学校の外で問題行動をしている生徒を指導しに行ったり、仕事終わりにみんなでトレーニングをしたりと、この4年間は大変でも楽しく最も充実していた時期だと間違いなく言える。
文化祭にはクラスでのダンス発表に一緒に参加したり、教員でバンドを組んで出場したり。
そんな楽しい思い出を残すことができたのも良かった。
生涯忘れない、私の大切な思いだ。

授業観の変化。もっと教えたい。

国語の授業にも少し変化が見られた。
これまでの私の授業展開は、単元で扱う文章の内容を理解することに終止していた。
板書もその整理のために行なっており、次に繋がるような知識は何一つ得られなかったと思う。

何がきっかけだったのかは忘れたが、”自分たちで教え合い内容を理解すること”を最終目標とした授業展開をするようになった。

答えに行き着くには、そこに行き着く道程がある。
数学はそれが”公式”という形で整理され分かりやすく、理系科目は特にその傾向が強い。
私は国語も同じで、文章からの情報の読み取りには公式があると考えており、その公式が日本語で示されている。

また、国語は

「筆者の言いたいことは何か?」
「登場人物はこの時どんなことを考えているか?」

といったことを問題にすることを揶揄され、筆者にしかわからないだの、読者の感じ方によるだの言われる。
これも

この文章表現だと一般的には何を主張していると考えるのが妥当か
この文章表現や展開だと、登場人物はどう考えていると想像するのが妥当か

というのを文章構成から読み取る、その力を養うのが国語だと考える。
そのため、

根拠のある読み取り

が重要なのだと考えるようになった。
それを最終的な目的として生徒同士に行なわせるためには、基本の徹底が必要で、そのためのアプローチを講ずるようになった。

こんなことは授業者の思考としては当たり前なのだが、当時の私はやっとそこまでたどり着いたところだった。
そういう授業の目的ができると授業づくりが楽しくなる一方で、困難校に近い現任校では授業が物足りなくなり、教科指導に力を入れたくなった。

 

最後に。この4年間に貰ったもの、残したものは多いらしい。

この4年間は酸いも甘いも濃い期間だった。
同時期に一緒に勤めた先生方と当時の話をすると、様々なエピソードが鮮明に蘇る。

その中で、”◯◯(卒業生)があなたに感謝していたよ”という話をして貰うことがよくある。

問題行動で事情聴取をした時に、私だけが決めつけずに話をちゃんと聞いてくれた
自分が困ったり焦ったりしていたときも、急かすこともなく付き合ってくれた
友人とのトラブルを抱えた時に、先生(私)に話をすれば落ち着けた
先生(私)は怒ると怖いけど、普段は優しくクラスが楽しかった

生徒たちはそんな話を私にではなく、周囲の先生にしていたらしい。
私は生活指導部に所属し、その中でも厳しく指導していた方だった。
そんな疎ましく思われる側の自分にそんな思いを抱いていてくれたことは本当に嬉しく、教師として間違っていなかったのだと感じる。

当時は必死だったし、ストレスで体調を崩したことも合った。
それでも異動をした後にもそんな話を聞くことができるほど、教師として頑張っていたのだと思う。

困難校で最も重要な生徒指導に関するスキルはこの4年間で十分学んだと思う。
学年で1番課題を抱えていると言われる生徒も担任し、児童相談所に長く関わってもらっていた生徒も卒業させた。

この学校で学べるものはかなり学んだ。
長いキャリアを考えた時に、これまで疎かにしていた教科指導をしっかり学びたい。

それが私が異動を希望するようになった大きな理由だった。

その思いが実り、教師生活9年目(教諭5年目)の勤務先は県内でもトップレベルの進学校になる。
進学校だと教科指導も学べるだろうし、ちゃんとした学校だろうから変な先生に惑わされることもない。

そんな希望を胸に抱き転勤を迎えるが、この転勤が私にとっての大きな岐路になったのだと今になって考える。

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